核兵器と核実験B

   アメリカによる核実験
 南太平洋ビキニ・エニウエトク環礁での実験
 アメリカは広島・長崎に原爆を落とし20万人以上の命をうばっただけではなく、世界で最も多く原爆実験をくりかえした国です。
 1945年のアラモゴードに始まり、地上217回、地下705回、計922回も実験を行いました。



 1946年からの実験場じっけんじょうは南太平洋の楽園といわれたマーシャル諸島、ビキニ環礁かんしょう・エニウエトク環礁でした( 上図1 )。これらの環礁は図2に示すように珊瑚さんごでできた島にかこまれたラグーンとよばれる静かな内海をかこんでいます。島民はこの中をカヌーで自由に行き来し、全体が生活圏せいかつけんでした。




   写真1 、ビキニ環礁で行われた水爆実験
       (1954年3月1日) (『棄民の島』より) 。


 ブラボーショットといわれる世界ではじめての水爆実験( 写真1 ) はビキニ環礁のビキニ島で行われました。第五福竜丸ふくりゅうまるが被ばくしたのはこの実験です。

 アメリカは島に住む人々には「世界の平和と福祉ふくしのために行う実験で、実験が終わったらすぐ島にもどす」と約束やくそくし、ロンゲリック環礁に移住いじゅうさせました。

写真2:年々広がる墓地、被爆者が埋葬まいそうされている。

 しかし、ここはビキニの風下にあたりました。放射性物質の危険性を知らされていなかった島のこどもたちはふりそそぐ雪のように白い死の灰をかぶりながら遊び、放射性物質で汚れた水を飲み、汚れた植物や魚を食べました。そのため多くの島民はがんや白血病にかかり死んでゆきました。(写真2)
 死産しざんや先天性異常せんてんせいいじょうも増加しています。



写真3:実験から二十数年後。頭の部分が枯れ落ちているヤシの木。

 アメリカは病気になった島民を診察しんさつしましたが、治療ちりょうは一切行いませんでした。そのためこれは放射線の影響えいきょうを調べるための人体実験じんたいじっけんだったのではないかとのうたがいがもたれています。




 その後、実験の大きさも場所もどんどん広げられ、エニウエトク環礁だけでも44回の原水爆実験が行われました。実験が終わった1968年までに故郷こきょうの島をおいだされた島民も、もとくらした島に帰りたいという希望は強く、アメリカ政府は死の灰をとりのぞく作業を行いました。
( 写真下 4,5)

写真4 、死の灰を吸わないように完全防護服を着た兵士
写真5 、防護服を着て死の灰とコンクリートを混ぜ、実験でできたクレーターの中に流し込む( エニウエトク)。



 ビキニ島でも汚れをとりのぞく作業が行われ安全宣言あんぜんせんげんがだされました。いったん島民は島に帰りましたが、地下水の汚染もひどくヤシの実や魚に放射能がたまっていて危険であることが分かりました。ついに島は閉鎖へいさされました。
 このようにマーシャル諸島では核実験により島民の生命も生活も文化も破壊されたのです。

写真は図1を除き全て『アトミックエイジ』より。




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