JCO@


   東海村JCO臨界事故(1)


■事故のあらましと、被害にあった人たち。

A:1999年9月、茨城県東海村で、当時としては日本が原子力を開発し出してから最大の、恐ろしい事故が起こって、2人が亡くなり、667人の被ばく者がでました。
 これは、1945年の、ピカドンと呼ばれた広島・長崎の原爆の被ばく者たち、1954年のビキニ水爆実験による漁船の被ばく者たちに次ぐ、「核」による被ばく者でした。
 しかも”核兵器“としてではなく、”平和利用“として原子力を開発してきた日本の、ふつうの街中の工場で起こったことなのです。

JCO地図



Q:どんな事故だったの?

A:1999年9月30日、午前10時35分頃、茨城県東海村のウラン加工工場JCOで、3人の作業員が、ウラン溶液ようえきを作っているとき、突然とつぜんバシッという音とともに「青い光」が出て警報けいほうが鳴ったの。これが臨界事故りんかいじこの発生で、3人はたくさんの放射線をあびてしまったのよ。

Q:むずかしくてよくわからないよ。もう少しやさしくして。

A: JCOという会社はもともと普通の原発で使う燃料を作っていたの。でもこのときはその仕事とは別に「核燃料サイクル開発機構かいはつきこう」というところの注文で、危険な、濃いこいウラン溶液を作っていたのよ。

 臨界りんかいという言葉がわからないわね。臨界とは、原子炉の中で起こっているような核分裂かくぶんれつ反応はんのうが次々に起こって続くこと。このときは、まわりにさえぎるものがなかったので、たくさんの放射線がそのまま出てしまったわけ。

連鎖反応



A: これで少しわかったかしら?みなさんは原子力というと原子力発電所をまず思い出すでしょう?でもこの事故はその前の、燃料を加工する工場で起こったのね。他にも原子力の事故を起こすかもしれないものは、核燃料輸送ゆそうのトラックも含めて、わたしたちのまわりにたくさんあるのよ。

Q: それでその後どうなったの? 3人のことが気になるな。

A: 3人の方は病院に運ばれたけれど、治療ちりょうがむずかしく、あとで書くように2人の方が亡くなったの。

 そのうえ、初めの臨界のあと、臨界がつづいているとも知らずにすごし、22時間も工場やその周辺しゅうへんに放射線がでてしまい、決死の作業で臨界を止めた人たちや、住民など多くの人が被ばくしてしまったのね。

 放射線による事故で一番大切なことは、「早く避難ひなんし身を防ぐこと」。でも政府はこの事故を「ありえない事故」と考えていたのでなんら対策が出せず、結局、現地の東海村が午後3時に施設から350メートルまでの住民に避難するよう求め、さらに事故後12時間も経った午後10時30に、茨城県が半径10キロメートル以内の住民に、自主的な屋内退避おくないたいひ(外に出ないこと)を求めたの。

 その数は約31万人にもおよぶそうよ。

 《つづく》



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