p.14-3  校庭での運動会(会津若松市) ↑前のページへもどる


学校は除染したけれど・・・・
 まず副読本の写真について、これは会津若松市の学校の写真です。会津地方は、福島県の海岸地方(浜通り)や、中央部(中通り)にくらべれば汚染の程度がもともと低く、とりたてて避難などする必要のなかったところがほとんどです。会津地方では、同じ福島ということで本当の風評被害が起こった地域といえるでしょう。ですから、ここで写真のように小学校の運動会が行われていてもなんら問題はなかった地域があったといえます。
 汚染地域では、まず学校の除染が徹底的に行われました。年20mSv以下の地域で避難指示は解除され、こどもたちを含め人々を帰還・居住させる方策がとられました。学校も同じ基準で再開され、こどもたちは登校しました。
 右のグラフは、福島市内の中学生に1分ごとに線量を記録できる放射線測定器を1週間身につけてもらって、その場その場の線量を記録したグラフです。これを見ると、学校の除染は比較的念入りに行われたので、学校にいた間は比較的に被ばく量は少なかったようです。しかし、この中学生の自宅は崖のそばにあるため、彼の部屋のある自宅の二階の方が一階よりも線量が高いことがわかります。そして、通学路の線量が高いことも読み取ることができます。通学路では、道の真ん中よりも、放射性物質が溜まりやすい道の端を歩くからだとおもわれます。いずれにしても、学校以外の生活空間には線量の高い場所があることがわかりますから、線量に注意しながら生活する必要があります。それが3.11.後の現実です。
 

避難を継続する選択肢を奪わないで!
 「こども被災者支援法」では、「支援対象地域での居住・他地域への移動・帰還を自らの意思で行えるよう、いずれを選択しても適切に支援」することが掲げられていますが、国と福島県は、避難者から生存の基盤である住宅を奪う避難用住宅無償提供の打ち切りをすすめています。
 2017年3月には避難指示が出されていない地域からご自身の判断で避難した住民への住宅無償提供が打ち切られ、苦しい生活の中でまだ汚染が残る元の住宅に戻るか、子供や高齢者の生活環境を変えずに避難先で住宅を自費で確保するかの選択を迫られる状況に追い込まれました。
 その後、避難指示が先に解除された地域から住宅の提供が打ち切られ、これまでに避難指示が解除された南相馬市などからの避難者用住宅は2019年3月末で終了します。町の大半が帰還困難区域のため全町避難が続く大熊町と双葉町以外は、浪江町、富岡町、飯舘村、葛尾村では避難指示が解除されていない帰還困難区域も含めて2020年3月末に住宅提供を終了すると発表されています。
 福島県の内堀知事は「避難者一人一人にていねいに寄り添う」と発言していますが、生活の基盤である住まいを取り上げられては、路頭に迷う避難者が出かねません。原発事故さえ無ければ避難する必要は無かったのに、期限を決められた「自立」の強制を迫られています。
 実際、住宅無償提供打ち切りを機に自ら命を絶った避難者もおり、避難者たちは、これ以上悲劇を繰り返してはならないと福島県や国の関係機関に訴え続けています。

   
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